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香りを運んだ古道、竹内街道〜1章 住吉から飛鳥まで〜

 お線香、お香といった香りの歴史を紐解いていくと、まずは日本書紀に描かれている一節が必ず登場します。
日本書紀巻第二十二、推古天皇の段に描かれているのは、

 三年夏四月、沈水、漂著於淡路嶋。其大一囲。

 推古天皇3年(595年)に、淡路島に沈香の香木が漂着し、島人が知らずに薪と共に竈で炊いたら、良い香りを漂わせたので、不思議に思って献上した、という逸話です。この香木については、その後聖徳太子がこの香木から仏像を削り出して吉野に納め、後になって法隆寺に納められたという逸話が残されています。もっとも聖徳太子が作らせたとされる仏像が、夢殿に安置されているものか、あるいは別の仏像かは色々と諸説があるようです。

 香りに関する歴史を紐解くと、まずは仏教との関わり−法隆寺と聖徳太子の話−から始まるようです。さて、淡路島からはるばる飛鳥の都まで沈香が運ばれますが、恐らくはその道のりと同じく日本で最初の官道といわれる竹内街道が整備されます。この竹内街道は、日本書紀によれば推古天皇21年(613年)に整備されたとありますが、はじめて遣隋使が送られるのが日本書紀によれば607年、向こうの隋書では600年、恐らく遣隋使を派遣した後、返礼の隋の使節などを招くためにも整備したのでしょうか。

堺市内の開口神社
 それ以前の時代から、現在の住吉大社のある場所が海の玄関とされていたようで、朝鮮半島からの使節などもこの難波の地から飛鳥の都へ向かったそうです。そして竹内街道が整備されてから、いよいよ遣隋使、遣唐使によって仏教の文化が都に運ばれることになりました。
 今でこそ大阪湾も埋め立てられて、住吉大社から海を臨むのは難しいですが、かつては相当船の往来で賑わっていたんだろうと思います。そこから内陸に向かって、今の堺市の中心部あたりに開口神社があります。この開口神社は住吉の奥院ともいわれ、社伝によれば神功皇后が、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願によって創建されたと伝えられています。恐らくは推古天皇の時代よりも以前から住吉大社と開口神社を結ぶ幹線道が作られていたことと思いますが、この開口神社が竹内街道の西側の起点だそうです。

 香りを運んだ街道とは言っても、それは飛鳥時代の頃のことで、その後の奈良時代までは良いとして、平安時代以降はあまり縁が無くなってしまうのではないか、そんな風に考えていましたが、どうもそうでもないようです。
 竹内街道は都が奈良や京都に移り、戦国時代の騒乱から江戸時代へと時代を経ながら、官道としての役割を終えて姿を変えていきました。しかしながら、このかつての街道に沿って様々な文化遺産が現在まで残されています。最近では、地域の歴史の見直しと共に、竹内街道も少しずつですが整備されています。色々な史跡や言われを辿っていくと、徐々にかつての竹内街道を通じて、時代の中でかたちを変えて行く香りの文化がこの街道を通じて様々な場所に運ばれていった様子がうかがえます。

旧道にある竹内街道の石碑
 鎌倉時代、それまでの平安時代には貴族の嗜みだった香りの文化が、武家の文化の中に少しずつ取り入れられ、室町時代に入ると貴族文化のリバイバル現象のような形で一斉に全国に拡散されていったそうです。そして、この時期、堺は活発な貿易都市として栄え、堺から全国に香木や薬草が届けられる中、大和川や竹内街道を通じて様々な場所に運ばれていきました。そして豊臣秀吉の時代から関が原を経て江戸時代に移ると、それまでの香りの文化が線香に姿を変えて、全国に広がるようになります。その時にも、堺と奈良を結ぶ竹内街道は重要な役割を担うことになります。
 長い歴史の中で、様々に姿をかえて、少しずつ全国に、そして広く社会全体に拡がっていく香りの文化をこの街道を通じて眺めていきたいと思います。

2013.5.9掲載
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