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八代目沈香屋久次郎「香を語る」〜1章 堺線香について〜

遣明貿易
一四〇〇年頃から中国・明との交易が始まります。最初は兵庫の津で行っていましたが、この港は応仁の乱で陸上と海上ともに封鎖されてしまいます。幕府はこの港を堺(現在の堺旧港)に移して再開しました。遣明貿易が再開されて幕府の代行をしたのが当時の堺の豪商たちでした。に代表される勇敢な商人たちが「明」をはじめ、万里の波濤をものともせず東南アジアとの交易に立ち向かっていきました。
この当時、堺港から船積みされた物には、火薬の元になる硫黄、刀剣、甲冑、美術品などがありました。そして、当時の国際通貨であった銀も生野銀山から運ばれて船積みされたらしいのです。黄金の国「ジパング」といわれますが、金ではなく銀を狙って諸外国は日本を目指していたのですね。
 輸入品には、中国の絹、陶器、薬、などの中に香料(伽羅、丁子、桂皮、その他)も含まれていました。これらは重要な輸入品の一部でした。
 天正年間(一四三〇〜一五七〇年)、この頃東南アジアに向かった堺の豪商たちは、直接東南アジアに出向いたのではなく、実は琉球(沖縄)を中継点として向かっていたようです。その頃、琉球から東南アジアに向けて出港した年次記録が残っています。



 それによると、シャム(タイ)に向かったのは五八隻、バタニ(マレイ半島)に十隻、マラッカ二〇隻、スマトラ三隻、ジャバ六隻などその他計百四隻(年間)が琉球から東南アジアとの交易に向かっていました。これらが堺から琉球、琉球から東南アジアへと往復したということですから大変なことだったと思います。
 一五五九年、琉球王朝から島津公に送られた進物品の中にシャムの沈香(真南蛮)五十斤も含まれていました。この頃から沈香が珍重されていたことが分かります。

「堺の薫物・線香」沿革史
 堺の薫物・線香はこのように古い伝統を誇っています。しかし、ご存知のように、堺は三度に及ぶ大火にさらされました。特に太平洋戦争により灰燼に帰したため、関連する資料がほとんど無くなってしまいました。ただ、明治三〇年五月、薫物線香組合(組合員四五軒)が協力していろいろな資料を持ち寄って発行した「堺の薫物・線香」沿革史が残っています。この沿革史は、当時私どもの四代目が組合長を務めていたので戦災以前に疎開して消失を免れ、現在も私のところにあります。私たちもこれを頼りに商売をしています。
 この沿革史の「そもそも當組合の商品たる薫物の起源は往古、推古天皇三年四月、沈香淡路島に漂着したるを島人の取りて献ぜしが……」で始まる中に、「明應、文亀年間に至っては東山慈照院初めて香道の法則を立てられ、次いで逍遥公、又香道に堪能たり。是に次いでは、志野三郎右衛門尉宋玄、香を好み志野流といえる香道を起こして広く民間に伝えられし以来、弥栄に行われたり。これらの需要に対しては、我が堺市は往古より、安南、交趾、呂宋を初め外国の貿易船、當津に輻けんせるにより、伽羅、沈香及び香類、雑貨は唐物問屋に於いて…中略」とあります。
 また、「享禄、天文の頃、茶香の風雅の隠士、市中に住みし中にも老人、殊に香を愛着し、相継で阪宗拾等などの名士数人出てより香の秘方を當時の商人に伝えられ、種々の香を製出せしめられたり」ともあります。この牡丹花肖拍という人は、豪商・が現在の三国ヶ丘に寄進したに逗留していた当代随一の連歌師です。文化人が商売人に香のことを教えていたのですね。
さらに、「之れ他、地方にあらざりしが故に當津の名産として海内に伝播するに至り、沈香屋と称し香類を専門に商う者相継いで起こる」と続きます。ここで「沈香屋」というものが出てきました。それ以前は唐物問屋で香類を扱っていたのですが、沈香をはじめとする香料・薫物を専門に商う商人が天正年間少し前から出てきます。これが「沈香屋」です。その後、香類は堺港から長崎に移っていくことになります。
それについては「糸割荷なるものにより貿易の商権は独り當市堺の商人にありしが故に依然として沈香、香類は沈香屋と称する商人長崎に馳せて悉く買取りに来たり。種々の香を製し、又は原品を全国に売り捌き居れり」とあるように、その後長崎に船が入るようになっても、香類は堺の沈香屋が独占していたことが分かります。
 当時の様子が描かれた資料があります。最初は道ばたで量り売りをしていました。

【沈香屋「香談−東と西」より】
 当時堺は納屋衆といわれる豪商による遣明貿易及び南蛮貿易で強大な経済力を持っていました。また千利休のわび茶を始め、京都からも三条西実隆を始め、有名文化人も多数逗留して絢爛豪華な文化の花が開きました。とかく文化というものは経済力がいるようですね。 茶の湯が日常的に行われ、香道の会も頻繁に行われていたことでしょう。その周辺を歩くとほのかな伽羅、沈香の香が漂い、沈香屋たちも足繁く屋敷に出入りして忙しく商いをし、各種薫物を製造する香があちこちに漂っていただろうと思います。「茶の湯」にしても「香道」にしてもこれらは客を迎えるための「おもてなしの心」であったと、堺市博物館元館長の先生はおっしゃっておられます。

薫物線香店
堺線香については「天正年間、堺宿屋町大道薬種商、小西弥十郎如清という人、線香製造の法を伝習し来たり。堺にて製造をなしたるを我が国にて線香製造の初めとす」と、沿革史に記されています。この部分では堺が線香発祥の地ということになっていますが、証明が出来ているわけではありません。が、いずれにしても堺の線香は長い歴史を持ち、現在まで続いているのは間違いありません。
 この流れをくむとされる屋号を持った「薫物線香店」が、戦前までは十二〜十三軒ありました。例えば、沈八(沈香屋八平衛)、沈和(沈香屋和三郎)、沈仁(沈香屋仁平)、沈九(沈香屋久次郎)、沈作(沈香屋作五郎)、などなどです。現在は残念ながら二軒になってしまいました。そのうちの一軒が、私どもが継ぐ「沈香屋久次郎」です。
 当時の線香の作り方は、ツボの中に線香の練ったものを詰め、滑車の応用で木を締めていくと線香が押し出されてそうめん状に出てきます。これを板にとって長さを調節するというものでした。この製法は油圧式の機械になる明治の中頃まで行われていました。

【線香突き「和泉豪商名家図譜」(和泉文化研究会)より)】
 私どものところで現在も使われている「調合帳」があります。これは、江戸末期から約四代にわたって書かれたものです。よく同業者の方に調合帳など簡単に見せてはいけないといわれますが、私は見ても分からないと思っています。調合帳には○や×などが並んでいますが、これは「」という記号です。昔の堺や大阪・道修町の薬屋がみんな使っていました。写真の左端に「ロアロア」と書かれていますが、これは数字を表しています。例えば、ある製薬会社では「アキナイヲガンバレヨ」が「アは一、キは二、ナは三……」という風になっているのです。私たちも独特の十段階を持っています。「ロアロア」も、数字を表していてその数字を足さなければ調合ができません。わからないでしょう? 古い調合帳はこのように記号になっていますから、どんなに見られても大丈夫なのです。


【現在も使われている調合帳】


【調合帳に記された唐人符丁】

 このように、現在の堺の線香は昔の流れをくんだ調合帳があり、その調合法を応用しているので当時の香りと近いものに仕上がっているものもあります。
 沿革史の最後は「我が国に産する中にも最も佳品として賞揚せられ今尚、堺線香の称あるなり」で締めくくられています。後年「線香屋」が出来たようです。

書物に残る香りの逸話
 天正年間初め(一五八〇年頃)には既に「沈香屋」仲間があったようで、享保年間(一七二〇年頃)の組合調査では、「株組織は享保十五年、堺奉行水谷信濃守の時、沈香屋は薫物の取り扱いを専業とする者が十六名、線香屋二〇名をもって名別に組織して、株の鑑札を受けて毎年若干の賽加金を上納し、更に年頭には若干のお礼金を上納することが慣例になっていた」とあります。
 お礼金というのは鑑札をとるための税金のような袖の下であろうと思います。こうして線香・伽羅が一般に浸透していきます。しかし、伽羅などは高価なものでまだまだ一般には憧れの的のようなものでした。
 この頃(享保年間)の『昔昔物語』に「伽羅を焚かねば大身は申すに及ばず小身もなし」、また井原西鶴の『好色一代男』(元禄年間)には「伽羅も惜しまず焚き捨て、香炉が二つ両袖にとどめ、むろのやしまと書き付けたるより立ち上る烟をすそにつつみこめ」と書かれています。
正保(一六四四〜四七年)頃の『鳥籠物語』に「これもめでたき御世故というに、じんの道とや申すべし、伽羅の道とやほめ申さん」と、「沈」を「仁」にかけて人倫の道を伽羅に例えたり、延宝六(一六七八)年には「国厚う 千代のつやあり 伽羅の春」(露言)と歌われたりしています。
 「伽羅」に関連した表現もいろいろあります。
 「伽羅看板、錦絵の男」というと、これは良い男のことをいいました。「伽羅看板、錦絵の女」、つまり良い女ということです。「伽羅の下駄」は上等の下駄。「伽羅橋」は素晴らしい橋。「伽羅多き人」は資産家。「伽羅を焼き尽くすは金銀を使い尽くすなり」は財産を使い果たすということです。
 吉原あたりの花柳界では「男に金銀くれよとは、さすがにきたなく申しがたし」ということで「伽羅少しおくれ」という風に言いました。「粋な男ならば金銀を出し、これで伽羅を買え」と言ったということです。本当の伽羅を渡してしまうと「無粋な人」ということになってしまいます。
 「伽羅の香りとこの君さまは幾度とめてもまだとめ飽かぬ」などという歌も小唄として残っています。
 この頃は、伽羅、沈香等はかなり使用されていたようですが、かなり高価で誰でもそうたやすく焚くことはできませんでした。いわば高嶺の花であったことから、花柳界を中心として日常会話に出てきたり、関連する歌が流行したと考えられています。

沈香屋・線香屋の業界組織
 話を本筋に戻しますが、昔の営業人員(店舗数)を調査したものがあります。天正年間から延享年間までは不明ですが、寛政年間からは分かっています。これは沈香屋・線香屋合わせてですが、寛政から慶應までほぼ数字が変わりません。これは株組織としてきちんとしていたからです。明治三五年は、先ほどお話しした堺薫物線香組合の沿革史が発行された年です。


【各年代の営業人員(店舗数】

 天正年間から慶應年間にかけて、商人たちは各々の業界組織(株仲間組織)に属しているので、素人が勝手に業界に入ることはできませんでした。業界の仲間数は何人、とほぼ決められていたようで、後継者がいないために廃業する場合のみ株が空くので、それを譲渡してもらうという場合だけ業界参入ができました。
 業界に参入する時の逸話が残っています。組合年行事(組合長)とともに総年寄役所(総年寄とは堺市における当時の門閥家(財産家)で、明治時代の区長のようなもの)に出頭し、総年寄の印をもらって堺奉行所へ出頭して鑑札をもらいます。これには相当な金品が動いたようです。さらにその後、業界組合員に披露しなければならず、豪華な宴会を開いたようです。
 線香・薫物の商品価格についての記録も残っています。


【線香・薫物の価格】

 線香が束ねられていることから線香を表す単位には、「」が使われています。当時の価格は銀の価格でしたが、各時代の銀の価格を斤に換算して、明治三〇年代の円に換算して作っています。
 寛政年間を見てみましょう。線香を五,九二八,〇〇〇把作って七九,〇二〇円、薫物は二三,五五〇斤で価格は一六四,八五〇円ということで、薫物が高価なものであったことが分かります。しかし、寛永から慶應に薫物が目立って減っています。これは、香道が衰退してきて香りに対する関心が非常に落ちていることを表しています。一方、線香は徐々に伸びてきています。
 当時の金一両の相場も資料として残っています。銀換算で一両が五八匁でした。この相場はどんどん変わっていて慶應には銀一五〇匁でやっと金一両に換えられたのです。明治元年には銀を二二〇匁差し出さないと金一両が手に入らなかったのです。金の価値が上がっているのが分かる資料になっています。


【各時代の銀価格換算表】

 その他、この組合が作成した調査書にはおもしろい項目が出ています。「銀行設立以前、資本を得るの方法」というもので、お金をどうやって借りるかという内容です。
銀行ができる前は「両替商」というものがあって、明治の銀行とそう大差はないと書かれています。すでに「手形」が流通していて、この書が書かれた明治の頃とは比較にならないほど、昔は商人間の信用は重かったということです。一時資金が入用な場合は取引のある両替商へ行くと、無担保で六ヶ月くらいは資金を出してくれました。この場合、手形の宛先を両替商にするとあります。紙一枚でお金を貸してくれたということです。
 この頃の「暖簾分け」についての記述もあります。
 丁稚は、十一才以上から十年の年期奉公としてその父兄と契約します。この場合、保証人が入って保証書を作ります。丁稚、手伝、番頭と順次位は上がり、十五才までは総髪です。十六才の春には前の生えぎわを剃り込み、半人前ということになります。十八才になると前髪を剃り落とします。これを「元服」といって、一人前になったことを表します。そして羽織着用が許されました。また、喫煙はどの商家でも禁止しています。期間が満了するとお礼奉公として一年〜二年は勤めることになります。
 その後、日用品、器具を一通り新調し、一戸を構えさせ、資金を出して独立させます。これを「」といい、主家と同一の屋号を付けさせます。これが「暖簾分け」です。
 永年勤め上げ、別家を持たせてもらうことは名誉なことであり、また主家においても別家をさせることは、栄誉なこととして喜んだとあります。明治の五、六年頃から、このような美風がなくなって寂しい限りである、と記されています。

大正時代以降の業界と新たな香り文化への挑戦
 やがて、大正、昭和に入り線香屋は六五軒に増え、堺線香の名声は全国に広まっていきます。
 しかし、線香屋の大多数は堺市内の旧環濠内で営業していたため、太平洋戦争で戦災に遭い、すべてが灰燼に帰しました。再び立ち上がった同業者も激変する時代の波にのまれ、復興を断念した者も数多く、一軒また一軒とその火は消えていきました。現在ははなはだ残念ながら、営業しているのは十一社に激減してしまいました。
 しかしながら、幾星霜、連綿と続いた線香の歴史を継承すべく、若い後継者達は立ち上がり、若い感性でこの「香」に挑戦する姿を見て誠に頼もしくもあり、嬉しく思っています。

八代目  沈香屋久次郎
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