〒590-0952
大阪府堺市堺区市之町東6-2-15
トップページサイトマップお問い合わせ
堺、かおりの物語 >> TOP PAGE

堺、香りの物語〜16章 海の堺、陸の今井2〜

 戦国時代の堺の豪商、かつ茶人だった今井宗久に因んだ史跡は、堺市内にも幾つか残されています。
 大仙公園の敷地内に「黄梅庵」という茶室がありますが、この茶室は宗久にゆかりのある茶室だと言われています。もともと今井町の豊田家にあった茶室で江戸時代中期頃のものとされていますが、昭和55年に堺市に寄贈されたそうです。
 今井町の記録によれば、豊臣秀吉が行った吉野山花見の際に設けられた茶室で、「宗久茶屋」と呼ばれたものだそうですが、それが事実かどうかは良く分からないようです。また、堺市の南、南宗寺の隣に臨江寺も宗久ゆかりの寺で、今井家累代の墓所となっています。

 宗久は今井町で生まれたとされていますが、活躍の中心は主に堺で、あまり今井町には宗久に因んだ史跡は残されていませんが、その影響は顕著で、江戸時代には茶道や和歌、俳諧など文化、芸術活動が活発で、経済だけでなく文化的にも周辺地域の拠点として発展していったそうです。

 さて、宗久は千利休、津田宗及と共に「天下三宗匠」と称されたように、信長や秀吉に仕えた茶人として良く知られていますが、案外堺の会合衆の一人である豪商としての側面はあまり注目されないようにも思います。
 信長が十五代将軍足利義昭を奉じて入洛する際、堺に矢銭(軍用金)を要求したのに対し、自由独立の気運の強い堺の会合衆はこれに抵抗して信長勢と対立状態に入りますが、宗久はいち早く信長に接触し、最終的に堺は他の地域とは異なり矢銭を用意し、信長の支配下に入ることは歴史的には良く知られた事かと思います。今井町も信長とは対立関係に陥りますが、これも最終的には宗久の仲介によって戦火を間逃れる事になります。

 全く確証の無い単なる憶測ですが、利休が日本全国のみならず海外の情報にも長けたシンクタンク的な役割とすれば、宗久は新進気鋭の軍需産業のCEOといった感じで、共に反骨的な武野紹鴎に影響されて、新たな日本のリーダーを目指すと同時にリーダーの育成を目指し、たまたま最適な人物として織田信長を見出した、というシナリオも描けるように思います。
 甲冑を扱う宗及は、相応に軍事の素養もあったはずで、だからこそいち早く信長の要請に応えて鉄砲や火薬の製造を手がけ、同時に新たな価値観として茶道を新たなリーダーの象徴として全国に浸透させていったのではないかと。
 まるでハリウッドと軍産共同体とCIAのような今時風の物語になってしまいそうですが、もう少し信長と宗久の目指した世界、という見方で歴史を捉えてみても、案外面白いかも知れません。

2012.08.29掲載
| Home | News | Company | About Japanese incense | Products | Contact us | Link | Sitemap |
Copyright 2013 Okuno Seimeido All rights reserved.