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堺、香りの物語〜5章 その後、利休とその弟子達〜

 利休には有力な戦国大名を含め多くの弟子がいましたが、これら弟子達は後世になって利休七哲、あるいは更に加えて利休十哲と呼ばれています。この弟子達は、蒲生氏郷を筆頭に、細川 忠興(三斎)や古田 重然(織部)などが良く知られています。細川や古田織部といった名前を挙げれば、大名としてだけでなく文化人としても今日まで語り継がれる程に、既に利休の弟子という範疇を越えているように思いますが、利休に通じる部分が伺えるのも確かです。利休がその時代に目指したもの、あるいは現代にまで継承されてきたものを考える上で、利休の後の弟子達による文化の継承について考えてみることも必要かも知れません。そこで、まずは大阪に一番縁の深い高山 重房(右近)について見ていきたいと思います。

 高槻城城主として、またキリシタン大名として大変に有名な高山右近。織田信長、豊臣秀吉に仕えながらバテレン追放令によりフィリピンのマニラへ追放されることになった非業の武将として知られていますが、このマニラ追放時には既に海外にも右近の高名が伝わっていて、到着時には大変厚遇されたそうです。右近は、残念ながらマニラ到着後1年も満たない間に病に倒れてしまいますが、同時に追放の令を受けた内藤如庵はその後12年間程マニラの地で翻訳等に携わり、一緒に渡った500名程の武士団と共にマニラの日本人町の開発に関わったそうです。
 ところで、利休の茶道は当時のキリシタンの影響を強く受けていると言われることもありますが、実際右近が利休の弟子達に影響を与えて、カトリック入信に勤めてきた経緯があるそうで、利休の弟子達の中にはキリシタンが少なからずいたことは確かです。
丁度この頃、ポルトガルからインドを経て日本に来たカトリック司祭のジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」という本を書いていますが、その中で、高山右近と茶道について記しているそうです。
そこには、利休の茶室と同じように非常に小さな庵が茶席としての空間であっただけでなく、右近にとっての祈りと黙想のための空間となり、一人庵に篭る様が描かれていますが、この宣教師から見た右近の姿には大変興味深いものがあります。

 茶道の動作がカトリックのミサに通じる部分があるという指摘もあるそうですが、当時の様々な文物や文化が行きかった中で生まれた茶道には、少なからず当時日本に赴いたキリシタンの影響もあっただろうし、また右近を通じて直接、間接的に茶道に影響した部分もあったかも知れません。残念ながら、右近の場合、細川三斎、古田織部、あるいは織田有楽斎のようにその後の茶道の系譜に影響を及ぼすような足跡はあまり見られませんが、今日の茶道の精神性には、むしろ右近の精神が引き継がれているという言い方もできそうです。


2012.04.02掲載
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