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堺、香りの物語〜7章 堺の歴史と香り〜

 少し堺の歴史を紐解きながら、堺の香りの文化について考えていきたいと思います。

 堺は、摂津国、河内国、和泉国の3つの国の境界として発達してきましたが、その歴史は大変古く、仁徳天皇陵古墳に代表される百舌鳥古墳群など大和朝廷成立期の4〜5世紀まで遡ります。
この地が上記の3つの国の中間として「さかい」と呼ばれるようになるのは、平安時代頃といわれます。その後西日本の海運の拠点として発展していきます。
この海運業を中心として戦国時代に大きく発展し、「自由都市」堺として広く世界に知られるようになりますが、千利休も丁度その時期に誕生し、堺商人として、また文化人として活躍しました。
 応仁の乱(1467〜1477)によって京都が衰退し、日明貿易船の初帰港として整備されてから1615年の大阪夏の陣までの150年間が、紆余曲折を経ながらも文化と経済の中心地として繁栄した時期です。1568〜1598年の織田信長、豊臣秀吉による安土桃山時代を迎えることになりますが、この時代の、今風に言えば「文化サロン」の中心に千利休が居たという事になります。

 現在でも、お香は堺市の伝統産業として息づいていますが、広く普及している線香が堺で作られるようになったのも、概ねこの安土桃山時代から江戸時代にかけての頃といわれます。当時、国際的な貿易港として発展していた堺では、海外の貴重な香木や香草が数多く取引され、日本各地にもたされてきた経緯があり、線香の製造を産業とする基礎が整っていたようです。そこに中国から線香の製造方法が伝えられ、江戸時代には堺で作られた線香が日本各地に広がっていったとされています。

 さて、堺に広く香木などが輸入されたのは、この信長から秀吉の時代からの国際的な貿易によるものですが、それ以前から既にこの地では国際港としての役割がありました。
 堺港が発展したのは、鎌倉時代以降といわれますが、それ以前は住吉津(すみのえのつ)が国際的な玄関口としての役割を果たし、遣隋使や遣唐使もこの港から出発していました。大和川を挟んで堺市のすぐお隣に住吉大社が鎮座していますが、住吉津は、この住吉大社の南側にあったとされています。
 推古天皇の時代に住吉津から飛鳥まで竹内街道が通され、その後大陸からの様々な文化がこの街道を通じて飛鳥や奈良に伝わっていきました。この住吉津と飛鳥を結ぶ竹内街道は、飛鳥の地から二上山麓を越えてほとんど直線で堺市内の開口(あぐち)神社へと到達します。そして、開口神社から北上すると住吉津に到着します。恐らく、このあたりが長い船旅を終えて、あるいはこれからの船旅に備えて物資を仕入れたり宿泊するための拠点として大きく発展していたことが想像されます。その際、様々な物資と共に香木や薬草の取引もされていたのではないかと思われます。このように奈良時代や平安時代には既に香木類がこの地、堺を通じて日本国内に拡がっていった様子が伺えます。

 遣隋使や遣唐使が仏教を日本に伝えると共に、香木やお香、薬草なども一緒に持ち帰り、まず最初に堺の地に降り立って、そこから奈良や京都といった都に持ち運んでいったのでしょうか。自由都市として堺が繁栄した時代よりはるか昔から、海外の玄関口としての堺には、海外の新しい文化と共に様々なものがもたらされてきたのかも知れません。

2012.04.29掲載
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